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鋳造歴史物語 Vol.3 人が育む技術。人を育む技術。

メーカーの基盤として製造の現場を特に重視し、製造技術を研鑽し続けてている弊社。現在、そして未来へとつながる歴史物語を紐解きます。

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Vol.3 人が育む技術。人を育む技術。

躍進を支えてきたもの

高度経済成長期。時代に足並みを揃えるかのように、
ヤマハ発動機も躍進の時を迎えていた。製造の現場でも、
新しい施設、そして新たな技術が続々と登場した。
勢いのある時代ではあった。しかし、技術を盤石の土台にできたのは、
それが人を介して伝承され続けたからだった。

 1970年(昭和45年)に登場した「トヨタ7(578A)」は、ヤマハ発動機とトヨタ自動車が共同開発した4輪のレーシングマシンである。国産車としては初となるターボチャージャー付きレースエンジンを搭載していた。ギャレット・エアリサーチ社製のディーゼルエンジン用ターボチャージャーを2基装備したツインターボ仕様だったが、「これがよく壊れたんですよ」と小椋宏典さんは苦笑いする。「何しろディーゼル用だから、ガソリンエンジンの排ガス温度に耐えられないんです。タービンの羽が曲がってしまう。さっそく川上源一さんから『ガソリンエンジンでも壊れないタービンを作れ』と檄が飛びました。私の上司は『6ヶ月でやれ。3ヶ月ごとに状況報告せよ』と命じられていたようです」

 小椋さんは「あわててアメリカにスッ飛んで行きました」。当時、日本にはターボに関する技術はほとんどなかった。400~500度もの高温の排ガスに耐えられるタービンを作るには、どんな材料を使えばいいのかすら分からなかった。渡米した小椋さんは、ボーイング社のジャンボジェット機「ボーイング747」のターボファンエンジンに使われているインコネルが最適だ、と突き止めた。「1000度の高温に100時間さらされても耐えられると聞き出し、コレだと」。耐熱合金としては、当時最高峰とされていた素材だった。

トヨタ7(578A)

レース専用に作られたプロトタイプマシン。ヤマハ発動機が開発協力した。5リットルエンジンの3代目「578A」は国産レーシングマシン初のターボチャージャーが搭載され、800ps以上を叩き出した。

 一筋縄ではいかなかった。川上の厳命通り、開発開始から3ヶ月の時点で中間報告したが、その時点では溶湯をうまく回すことさえできずにいた。「私の上司は、川上さんに『何だこりゃ!』と言われたそうです。まだ確か肩書きすらない私が直接叱られることはなかったんですけどね(笑)。現場の人間を叱らなかったのは、川上さんの人柄だと思います」。上司の傘の下、伸び伸びと開発を続けた小椋さんは、ついにロストワックス精密鋳造法でタービン作りを成し遂げたのだった。
「この時は、川上さんに直接『よくやった!』と褒められましたねえ。ガソリンエンジン用ターボの先駆けとなったんじゃないかな」。高温の排ガスにさらされるシビアなガソリンエンジン用のターボチャージャーだったが、この時得た技術的な知見をベースとして、その後、月産1万台を数えるまでに普及していくのだった。

 1974年(昭和49年)にはVプロセス鋳造法の開発に携わり、ピアノのフレーム作りに活用した。「アップライトピアノを月1万台生産する」というかけ声のもと、当時の金額にして20億円でVプロセス工場を作った。「Vプロセスで作られたフレームは、鋳造とは思えないほどキレイでね。アメリカの鋳造専門誌編集長が『ヤマハに、鋳物工場の明日を見た』と書いてましたよ」

 こういった挑戦的な技術の開発が、たゆまず続けられた。ヤマハ発動機の鋳造技術者たちは難問に果敢に挑み、成果を獲得していった。川上源一以下、歴代の技術畑の役員たちも、かなりの頻度で積極的に鋳造工場に足を運んだ。小椋さんは「みんなレースが近くなると、エンジン性能を司るシリンダーヘッドにかじりつきでね(笑)。私なんか当時は平社員でありながら、ずいぶんと『偉い人たち』に対応してたものですよ。今じゃ考えられないかもしれないね」と振り返った。

 そう語る小椋さん自身も、後にヤマハ発動機の役員の座に就くことになる。しかし若き小椋さんが所属していたのは、あくまでも日本楽器(現在のヤマハ株式会社)だ。1955年(昭和30年)に設立されたヤマハ発動機と、その母体ともいえる日本楽器の連携は密接だった。小椋さんがそうであるように、日本楽器出身の技術者たちも中核を成していたのだ。鋳造工場も、ヤマハ発動機と日本楽器で共用している部分が少なくなかった。

磐田第3工場

1981年9月に磐田第3工場が完成(左上)。シリンダーヘッドなどの鋳造部品の製造を担い、これをもってすべてのオートバイ鋳造部門が日本楽器からヤマハ発動機に移管された。

 しかし、世界規模の好景気やオートバイブームという時代背景にも後押しされ、70年代後半になるとヤマハ発動機の企業規模は飛躍的に拡大していった。小椋さんいわく、「日本楽器に比べると投資額は桁違いに多かった」。オートバイ専用の工場を設け、オートバイのスペシャリストたちを育成しなければ、とてもではないが追いつかなかった。

 1980年(昭和55年)、それまで日本楽器に管理されていたオートバイの鋳造部門を、完全にヤマハ発動機に移管することが決まった。「半年でやれ」。そう命じられたのが小椋さんである。1981年(昭和56年)、小椋さんは出向という形でヤマハ発動機に籍を置くことになった。ずっと日本楽器で働いてきたから、内心複雑な思いもあったが、「今までオートバイや自動車の開発に携わってきたからには、私がやらねばならんだろう」と責任感を持って職務にあたった。そして実際に、わずか半年で磐田第3工場にオートバイ鋳造部門を移管させた。これがヤマハ発動機の鋳造技術をさらに進化・発展させる礎となった。

 移管にあたって小椋さんが特に力を注いだのが、優秀な人材の確保だった。「鋳造が分かる大卒新入社員を、できるだけ多く回してくれ」。上役には「小椋は人ばっかり要求するんだな」と揶揄され、入社した新卒社員には「きつい職場じゃないか」と恨まれながらも、小椋さんは徹底的に人材を補強した。「鋳造技術は、ヤマハ発動機のコアだ」という思いが、小椋さんを突き動かしていた。それは、小椋さん自身が川上源一から叩き込まれた思想だった。

「よそにないモノを作れ」「新しいモノを作れ」「自分たちで作れ」。小椋さんを始めとするヤマハ発動機の鋳造技術者たちは、トップからそう言われ続けてきた。道は常に困難だったが、だからこそ強いやりがいを感じていた。突きつけられる課題が無理難題であるほど、燃えたぎるものがあった。「磐田第3工場が稼働したのはいいが、ちょうどスクーターが大ブームでね。月に6~7万台を生産しなければならなかったんです。15秒ごとに注湯する鋳鉄自動注湯システムも開発しました」

 個性。新規性。独自性。そして困難を乗り越えることで開発された力強い技術は、確かにヤマハ発動機の躍進を支えた。そして技術は、人を介して伝承されていくものだ。小椋さんら先達は、人材の重要性を痛いほどよく理解していた。「鋳造を制する者は業界を制する」と檄を飛ばされながら、何でもやらされ、誰も何も教えてくれず、自分の力で技術を切り拓いてきた。そういう小椋さんのような技術者たちが、自らの技術力を高めると同時に、鋳造のスペシャリストたちを育成していったのである。

「やっている時には、ただがむしゃらでね。何も気付いていませんでしたよ」と小椋さんは笑いながら振り返る。「そのつどベストと思う素材を使い、ベストと思う技術を積み上げ、ベストと思うやり方で人を育てていった結果でしかない。後になって振り返ったら、たまたまいい方向に進んでいただけだと思います」と謙遜する。そして、こう言った。「技術は、人の中にあるんですよ」。(つづく)

小椋宏典氏

小椋宏典氏。元ヤマハ発動機専務。現在は公益社団法人日本鋳造工学会 東海支部で名誉理事を務めている。

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