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経済活動に遊びは必要か。哲学者・國分功一郎と「仕事」の可能性を探る

哲学者・國分功一郎とRePLAYプロジェクトリーダー・福田による対談。「遊び」という視点から、プロフェッショナリズムと「ゆとり」の関係性に迫りながら、現代社会で人間らしく働くことの意味を考察します。

2025年3月24日

  • RePLAY STUDY
  • #哲学
  • #働き方
  • #プロフェッショナリズム

ヤマハ発動機は、ピアノなどの楽器で知られるヤマハ株式会社から分社独立し、今年で70周年を迎えます。楽器を作るヤマハと同様、私たちもバイクやボートなど、一貫して「遊び」に関わる製品を作ってきました。生活必需品ではなく「遊び」を通じて人々に豊かさを提供してきた企業です。

そんなヤマハ発動機が今年新たに立ち上げたプロジェクトが「RePLAY」。近年ますます深刻化する地球環境を鑑み、リジェネラティブな観点から「遊び」を再定義し、社会実装を目指します。掲げるコンセプトは「地球がよろこぶ遊び」です。

しかし、一歩社外に出てみると、ビジネスの現場に「遊び」や「楽しみ」を持ち込むことには、理解が得られないことも多いです。「遊び」の文化が浸透したヤマハ発動機さえ、さまざまな価値観と相反して「遊び」を貫くのが難しい場面はやはりあります。

そこで今回お話を伺ったのが、哲学者の國分功一郎さんです。國分さんは前著『目的への抵抗』で「遊びが手段と目的から逃れる唯一の手段」と述べており、新著『手段からの解放』の帯にも「楽しむとはどういうことか」とあります。

社外のさまざまなステークホルダーから理解を得て仲間を増やすには、ビジネスにおける「遊び」の価値をどう打ち出していけばいいのでしょうか。RePLAYプロジェクトリーダーの福田晋平が、國分さんとの対話を通してヒントを探ります。

経済活動が「無時間的」になっている

福田著書を拝読し、僭越ながら、國分さんがお持ちの問題意識には我々と通じる部分があるように感じました。今日は著書の内容にも触れながら、「遊び」についての考えを深めていければと思います。

國分「遊び」というのは興味深い論点ですよね。まず、日本語の「遊び」というのは、言葉としてすごく面白い。「プレイ」の意味もありますが「ハンドルやネジに遊びがある」「少し遊びを作っておく」といった言い回しがあるように、機械における「ゆとり」という意味もあります。つまり、「楽しむ」ことと「ゆとり」とが一緒になっているわけです。

福田ああ、本当だ。

國分「ゆとり」というのは暇のことです。そして「楽しむ」というのは、そのゆとりの中で、時間を潰すのではなく使っていくということ。どうすればそれができるかを考えたのが、10年ほど前に書いた『暇と退屈の倫理学』という本です。

人間は退屈を非常に恐れています。でありながら、あまりに自由な時間があると、何をしていいかわからなくて困ってしまう。その矛盾をむかつくほど鋭く言い当てたのが、本の中でも紹介した「人間の不幸はだいたい部屋にじっとしていられないことから来る」というパスカルの言葉です。これはまさしく僕が考えてきた論点と言えます。

けれども、ヤマハ発動機さんには「遊び」について考える企業文化がもともとあるわけですよね? そこから一歩踏み込んで何かがしたい、ということなんでしょうか。

福田我々はこれまで「遊び」を通じて、暮らしの豊かさを提供してきました。しかし、バイクにしてもボートにしてもCO2を排出しますし、タイヤが地面を傷めたりもしているでしょう。それは今後も致し方ないことかもしれませんが、どうにか他のところでオフセットして、トータルで地球や自然が豊かになっているようにしたい。そんな「遊び」を実現したいという思いがあります。

おっしゃるように、社内には「遊び」の文化が十分に根付いていると思います。ですが社外に目を向けると、仕事に「遊び」を持ち込むことにネガティブな反応を示す人も少なくありません。どうやって共感してもらい、同士になってもらえばいいのかというのが我々の目下の悩みです。

國分人間の生活は多かれ少なかれ自然を破壊するものですが、20世紀になって環境問題がここまで大きく取り沙汰されるようになったのは、人間がとてつもない規模の経済を作り出したからです。この「際限なく成長をしないといけない」という強迫観念から自由になれさえしたら、人間はより楽しみながら、自然と共存していけるのではないでしょうか。

いまの「金融資本主義」と呼ばれているものは異常な状態だと思います。そのことを説明するのにご紹介したいのが、マルクスが資本主義を定義した「G-W-G’」という図式です。

元手となる貨幣(G)で商品(W)を作り、増分を含む貨幣(G’)を得る。これが典型的な経済活動です。ポイントは、商品を作っているということ。そして、商品を作るのには時間がかかるということです。

金融資本主義では恐ろしいことに、この商品(W)がなくなってしまい「貨幣(G)-貨幣(G’)」となる。商品を介することなく金が直接金を生み出すので、まったく時間がかからない。いわば無時間的になっていくのです。

福田無時間的に。なるほど。

國分ものづくりが人間にとって大事だというのは、いろいろな観点から言えることではあります。ですが、その中でも強調したいのが、お金をめぐる人間らしいペースというものがあるのではないかということです。お金があり、何か考えて作って、「どうですかね」と言って売って消費者側もそれを十分に吟味した上で買う、というような。これはある種、人間的な時間の流れだと思うんです。

対して金融資本主義のそれは、完全に人間性を超えた時間の流れになっている。まさしく非人間的な状態になっています。

ものを作るのに、人間は必ず自然を破壊します。ですが、たとえば林業であればまた木を植えるというように、破壊しつつも同時に再生する活動もできるでしょう。ただし、そのためには「時間がかかる」というのがポイントになるわけです。

プロフェッショナルの仕事はどこへ?

國分ヤマハ発動機さんを前にしているから言うわけではないのですが、その点、メーカーは素晴らしいですよ。僕は楽器の方のヤマハには結構お世話になっていて、家にあるピアノもヤマハ製ですし、以前はシンセサイザーも持っていました。

楽器のように目利きが必要なものは、使う人を騙しません。そのため作り手も、どういう機能があったら役に立つか、面白いかと真剣に考えて作っている。そこには作り手と買い手、供給側と需要側の真剣な対峙があります。いわばプロフェッショナル同士の対峙です。

福田ああ、それはおそらくバイクに関しても同じことが言えますね。

國分そういうものを作る現場には、作り手の方々からしても、まさしく「遊び」や純粋な「楽しみ」がすごくあるのだと思います。もっとも、これは皆さんがずっと経験されてきたことであって、改めて指摘するほどの話ではないかもしれませんが。

福田いえいえ、先ほどの「経済活動が無時間的になっている」というご指摘は目から鱗でした。我々が取り組む価値創造は、確かに時間を必要とします。そしておっしゃるように、そこには作り手としての「楽しみ」もある。ですが正直な話、ジレンマを感じているところもありまして……。

弊社には「趣味材」と「移動具」という表現があります。前者は趣味のバイクなど。後者は手堅い需要、例えば生活の足として販売数量を見込めるスクーターのようなものを指します。我々には株主の利益を最大化する責務がありますから、前者だけではダメなんです。

國分事前の依頼書には成果主義に関する質問がありましたが、その問題とも関連していそうですね。成果主義を採用すると人間はどうなっていくか。当然ながら、評価されるような成果を上げようという方向に行きますよね。ですが、職場では本来、人間関係などもものすごく大事です。声かけしたり、人と人をつないだり、そういった貢献は成果主義の中では見落とされがちです。

バイクの設計をしている人だって、設計だけ考えて仕事をしているわけではないはずです。同時に職場の人間関係についても、帰ってからの家庭のことについても考えているでしょう。プロフェッショナルの仕事というのは、そういうものの総体として成り立っているものです。

福田おっしゃる通りだと思います。

國分にもかかわらず、成果主義は誰にでもわかるいくつかのパラメーターで仕事を評価しようとします。「事務の仕事」などと簡単にいうけれども、事務のプロは事務のプロで、パッとは説明できないような細かい仕事をたくさんしてくれているわけでしょう?

いまの世の中はそういうものを評価しないで、紙切れ1枚でまとめられる程度のことしか見なくなっている。つまり「プロフェッショナルの消滅」とでも言うべき事態が起きているんです。

目的と手段に支配された「依存症」社会

國分『手段からの解放』では「楽しい」という状態を定義することに取り組みました。書いていくうちに行き着いたのが「目的と手段」の話です。

哲学者のハンナ・アレントは「目的は手段を正当化する」と言っています。目的を立てた時点で、手段は必ず正当化されてしまうというんです。

企業においても、たとえば「売上をいくら」と目的を立てたら、その達成のためには手段を選ばずにいろいろなことをやるでしょう。目的が手段を正当化するとは、そういうことです。

福田否定できないですね。耳の痛い話といいますか。

國分企業活動をする上では、目的と手段がなくなることはありませんから、それは仕方のないことです。ものづくりをするのであっても当然、目的と手段はあるでしょう。ですから、数値や指標ももちろん大事。けれども、そこには同時に「楽しみ」もあって然るべきではないでしょうか。

つまり、問題は目的と手段「だけ」になってしまうことにあります。そうすると「楽しみ」はどんどんなくなってしまう。楽しむための「ゆとり=遊び」がなくなってしまうわけですからね。

この本を書いた背景には、世の中から「遊び」がなくなっていることに対する強い警戒感があります。たとえば、いまはタバコや酒がものすごく叩かれているじゃないですか。不要不急、目的・手段の観点からみて余計だと思われるものが、すごい勢いで排除されていますよね。

若い学生と話していても、すぐに「成長が……」などと言うわけです。「二十歳を過ぎているんだし、もうこれ以上背は伸びないよ」などと冗談まじりに返すのですが。それくらいに世の中が目的・手段に回収されてしまって、「遊び」がなくなっている。

これはある種、みんなが依存症に陥っているような状態ではないかと思うんです。

福田依存症、ですか。

國分たとえば薬物依存症というものがありますが、薬物、すなわち薬というのは純粋な手段であって、味わうということはあり得ません。その点でタバコやお酒とは違うわけです。

タバコやお酒にも、リラックスするなどの手段としての側面はもちろんあります。ですが一方で、味わうことができますよね。アルコール依存症というのは、この味わうことがなくなった状態です。そうなると、お酒は苦しみから逃れるための純粋な手段となります。

社会から「遊び」が失われて目的と手段だけになるということは、その意味で依存症のような状態だと言えるわけです。

カントは「享受の快」、つまり何かを味わう「楽しみ」について語っています。世の中に享受の快の余地を必ず作っておくことがとても大事だと僕も思います。

依存症というのは少々刺激の強い言葉だったかもしれません。ですが、人間について考える上で重要なキーワードだと思い、あえて使わせてもらいました。人間は多かれ少なかれ、誰でも心に苦しい部分を持っています。この世に生まれて大きくなっていくこと自体が、いろいろな傷を負うことだからです。

それがあまりにひどい傷になると依存症になるわけですが。そこまでいかなくても人は必ず傷を負っていて、自分なりにそれを癒やす何かを持つことで、なんとか生きているのだと思います。その何かこそが「楽しみ」であり、「遊び」なのではないでしょうか。

日本人にとって、仕事と遊びは本来近いものだった

福田人間にとって享受の快が大事だというお話には共感しかないですが、ここで改めて仕事と遊びの関係について聞いてみたいです。

個人的には、仕事も遊びも、最終的に得られるものは近しいという感覚があります。どちらからも学びを得られますし、新しい感覚を得られたりもする。この仕事と遊びの区別について、國分さんの見解を伺いたいです。

國分まったくおっしゃる通り、遊びと仕事は近いものがあると思います。

いくつか言えることはありそうですが、まず「労働」や「ビジネス」という言葉と日本語の「仕事」はまったく違います。「労働」というのはキリスト教文化圏的な言葉です。エデンの園から追放された人間は、額に汗して働かなければ生きていけない。要するに「労働=苦しいもの」という考え方です。ビジネスも「busy」からきているから、常に忙しい状態を指します。

一方、日本語の「仕事」という言葉はどうでしょうか。正確な成り立ちはわかりませんが、文字通り「人に仕える」という意味だとすると、まったく異なるニュアンスを持っていますよね。

フランスの有名な文化人類学者レヴィ=ストロースが1970年代に来日した際には「日本人は変わっている。働くことを嫌だと思っていない」と言い残したそうです。さすがはレヴィ=ストロース。よく見ている。高度成長期の日本人のモーレツな働き方は、キリスト教文化圏の考え方からすると理解が難しかったのでしょう。

福田仕事を楽しむというのは日本人的な感覚だったということですか。そうだとすると、仕事に遊びや楽しみを持ち込むことをよく思わない昨今の風潮は、日本が中途半端に欧化した結果なのかもしれないですね。

國分 仕事と遊びの区別がないのは、基本的にはいいことだと僕は思っています。もちろん「やりがい搾取」など、いろいろと気をつけなくてはならない問題はあるのですが。僕自身も結構楽しんで仕事をしていますし。

大事なのはやはりバランスではないでしょうか。先ほども言ったように、仕事には必ず目的と手段がありますが、その中にゆとりがなくなってしまうとダメだということです。そうすると享受の快のようなものが出てくる余地がなくなってしまう。

大学で講義をしていると、終わった後に学生が話を聞きにきてくれることがあります。それは本来非常に嬉しいことです。心に余裕があるときであれば、僕も時間を忘れて学生との議論を楽しんでいます。ところが、大学もいろいろなことをさせられる場所なので、実際は結構忙しい。忙しいとどうしたって心も荒むじゃないですか。そうすると僕も「急いでいるのにな……」となってしまう。ゆとりがあるとないとで、まったく違うわけです。

福田ははは。國分さんでもそうですか。

國分 人間らしい権利が守られている仕事であれば本来、目的と手段だけに回収されない喜びが必ずあるはずです。僕は仕事というのはもともとそういうものだと思う。ですから、仕事も遊びも近しいもの。ただし、とにかく余裕が大事だということです。

これは人間らしく働こうという当たり前の話

福田もう一つ、いまは企業が追うべきとされる目的にも、単に利益を追求するというだけではなく、地球環境や人権など、さまざまな要素が新たに加わっています。こういったものに関しても楽しむ要素を見出していいのでしょうか。

國分地球環境というのは普通に考えて楽しいことに決まっていますよね。人間が快適に生きていける環境のことなんですから。

人権というのも、人権と言ってしまうから堅苦しくなるのではないですか? 「遊びがあるのが人間らしい暮らしである」という前提に立てば、「人間らしさがなければ人間は生きていけない」「それはおかしい」「権利として考えよう」という話になるでしょう。

福田確かに。

國分日本国憲法にも「基本的人権=健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」と書いてあります。要するにこれは、単なる生存の権利ではないということです。いろいろと新しい概念が持ち込まれて大変な部分があるのかもしれませんが、どれも当たり前のことを大事だと言っているにすぎません。大それたことではないんですよ。

福田考えてみれば、ネイチャーポジティブにしてもリジェネラティブにしても、いま企業が新しく追わなければならなくなっている概念は、その多くが西洋から持ち込まれたものです。

けれども日本には本来、宮大工に代表されるようなプロフェッショナルな伝統がある。そして「プロフェッショナルの仕事には、本来遊びが備わっているはず」というご指摘がありました。

本来持っていたはずの遊び、楽しみという観点が抜け落ちたまま、次々に持ち込まれる新しい目的に飛びついている。その結果、ただでさえ忙しい世界がますます忙しくなっているというのが、日本企業の現状なのかもしれません。

だとしたら、ヤマハ発動機はその逆張りをする。この空欄を埋めていきたいと改めて思いました。今日はありがとうございました!

執筆:鈴木陸夫 /撮影:本永創太 /編集:日向コイケ(Huuuu)

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