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レジェンド(?)社員による超個人的車両系譜解説

社内で知らない人はいない生き字引き的社員が語る思い入れたっぷりの車両の系譜

全長 × 全幅 × 全高:2,080mm × 740mm × 1,085mm

車両重量:139kg

エンジン型式:水冷, 2ストローク, 並列2気筒, 247cm³

最高出力:25.7kW(35.0PS)/ 8,000r/min

最大トルク:29.4N・m(3.0kgf・m)/ 8,000r/min

販売価格(当時):¥354,000

※各モデルの説明や諸元で表記している数値などはすべて販売当時のものです。

参考:コミュニケーションプラザ RZ250 展示コレクションhttps://global.yamaha-motor.com/jp/showroom/cp/collection/rz250/new window

カスタマーエクスペリエンス事業部
企画戦略部

S1Rさん

学殖を増すものは遊びだけである~信者

先人の知恵に学びリスペクトした上で、新しい組み合わせで創造するのが好きです。誰でもできる後だしジャンケンが嫌いです。小さな創意工夫の連続でも振り返ってみると大きなイノベーション。そんなモーターサイクルカルチャー人生、残り少なし。

なぜ今さらRZの系譜なのか

ヤマハの系譜を解くのにRZ250を軸に持ってくるとはなんと安直な事か、と批判されるのはもう分かりきっている。しかしながらこれを描かないと始まらないのにはいくつかの理由がある。

その前にコミュニケーションプラザが監修した開発者インタビューをご覧頂きたく、私はこれを超える優良記事を見たことがない。自分が見聞きして書ける情報を遥かに超えており当時の臨場感で満ちている。

参考:RZ250 開発ストーリーhttps://global.yamaha-motor.com/jp/showroom/cp/collection/rz250/story/new window

しかしながら、私には現在(202X年)からRZを振り返る未来人の視点と、過去の自分が最初に大きなバイクに跨って結構なスピードを出した熱狂の原体験がある。これを勇気を持って描くものは決してゼロ価値ではないだろうと期待する。

永らくモーターサイクルの商品企画やデザイン企画に携わった。駆け出し当初、1995年辺りではライバルの売れ行き状況を日々憂いて今すぐ販売最前線に届けたい商品像を考えていたが、そのうちに開発プロセスの成熟化と共に期間もジリジリと伸び、すると将来予測に時間を掛け、正しい(様な)分析データを持って効率的で綺麗な戦略論を書けた方が「正しかろう」とされるように変化した。客観性をかき集めた説得力があれば関係者の同意を得られ開発着手もスムーズだということだ。みんな正しいと言っていたのでたとえ大失敗しても責任の所在さえ分からなくなるのにだ。分らなければ犯人捜しと排除を行った上で、完全安全領域から改善モデルの企画を立ち上げる。こうやって主観ドリブンの企画は消え去る。

作図:西村 慎一郎

悪あがきなのか、ゲームチェンジャーなのか

zoom

前述の開発者インタビュー記事に出ておられる三人の偉人は、完全に我々未来人に蹴りを入れている。

衰退が約束された2サイクル市場での刹那の悪あがき(悪ふざけにも見えたろう)がRZの登場に繋がり、マーケットを一転させ激しい性能競争と市場拡大に繋がったことは知られ過ぎていてもう書かないが、企画屋としては「痛快すぎる」とだけ足しておきたい。そして先輩方にお伝えしたいのは「あれから45年ほど経ちましたが、YZは2stのままフルラインナップで売っていますよ」ということだ。

スノッブな物言いで、もう未来はこっちなんだから古臭く非効率でリスキーなことはやめてしまえ、みんなこっちに行くのだから、と良く目にする。しかしその一方で、究極の顧客体験/潜在的価値観から考えるデザイン思考や、守破離の先にある主観こそが価値であるとのアート思考もまた重要であると言われる。そんな学問もマーケティング手法もコンサルもWEB上の情報も無い中で(今なら“真っ暗“とも言えるだろう)、「よし。時代に逆行して最後の本物スポーツバイクを上市する」と決めたエンジニア達に、私は暗く鬱屈したものを一切感じない。

少年達の熱狂と偏愛の果てに

さて、1980に発売されるが、鹿児島の田舎のバイク屋にその姿が並ぶことは無かった。その瞬間に店頭からは姿を消すからだ。中学生となり誰かが持ち込んだバイク雑誌を教室で回し読みするようになっていた。最新の誌面がRZでありライバルモデルのホンダVT250だった。俺は技術的に凄いVTを買う、いやRZはレーサー直系だからチューンすればもっと凄いと、まったく買えもしないし乗れもしない坊主頭ガクラン&チャリ通学坊やの妄想は、とにかくアレが欲しい、雑誌に書かれている夢の様なことが本当なのか、友人に知ったかぶりのホラを吹くしかなかった。

中2野郎に、35万円のヒーロー機がもたらされる訳は絶対ないのだが、不思議なことに急にチャンスが舞い込む。友人Kの兄貴が遠洋マグロ漁船で一儲けして使い道もなくRZを買ったというのだ。放課後チャリで山を登り訪ねると、兄貴は遠洋上なので居らず、なんと鍵もあるとKは言う。すでに我々一味は新聞配達で得た数千円の給料を元手に広大なK家のミカン畑山頂にボロいMR50を練習機として隠し持ち、また私はポンコツ15000円のCR80で裏庭モトクロスを始めていた。技量的にはどうにか乗れるはずなのだ。しかし止めた。CRの20倍価値のRZを無断では乗れない。美しい3本ラインの81年式を眺める為だけにみかん山を登ること1か月。今度はいとこ3兄弟の長男が同じくマグロでRZを買った。ケンカが強く勉強もせず中卒で働くことになった2歳上のT兄ちゃんだが、私に兄がおらずかつ生意気だったことで先輩に目を付けられた際にも「俺の名前を出せ」と言ってくれた。そのT兄ちゃんが、「わやモトクロスば練習しとっでオイより巧かどが。はよ乗ってこんね!」と言ってくれた。メットもグローブも光輪通販の安物は持っている。

しかし、ものの10分で到底乗りこなせないことだけが分かり、嬉しさと悔しさの中、RZを返しに行った。「もへ良かっけ。もっと走って回って良かとに」しかしなぜかもう二度と借りないと決めた。興奮が落ち着いた頃には、ちゃんと16になって免許を取り、自分のRZを買うんだ。その為に免許が取れる工業高専を目指そう。出来れば未来のRZを作れるエンジニアになりたい、もしくはあのカタログの美しいテクニカルイラストレーションを描きたい、と願うようになった。

私小説を書くつもりは無かったが、なぜなら当時の少年たちの暑苦しさを書いておかないと同年代のエンジニア・企画屋・モノづくり屋・マーケター他の潜在エネルギーを説明できないからだ。

RZやライバルモデル群に向かった直撃世代の情念が、各々の価値観に変化して二輪メーカーを目指したのだろうと信じているからだ。ここのドンピシャ世代が2000年前後からの飛躍的な日系の伸びを起こしたことに疑いの余地もない。これはカルチャーの系譜として大変に重要だ。

そして、16で原付スポーツを3台乗り換え、17で手にしたのは、2年落ち20万ちょっとのRZ250R(29L)だった。TZR250(1KT)が出る1年前で、当然NSRも世の中に無いから、粋がって転がすにはまだ幸せだった。

1987/09 夜中の4人衆

変哲もない天草の県道で、黒RZの親友Eを亡くし、その車両の引き上げを相談したバイクショップでその後アルバイトを掛け持ちするようになる。この世代では誰にでもあるような人間模様だが、学校では得られない至極の暑苦しい体験の数々がそこにはあった。

※本コンテンツには、当時の価値観や時代背景に基づく表現・写真、および個人的な体験や記憶に基づく記録・解釈が含まれています。

この記事のまとめ

  • ヤマハRZ250(1980年発売)は、水冷2ストローク並列2気筒247ccエンジンを搭載した軽量スポーツバイクで、35PSの高出力を誇る当時の高性能モデル。
  • 2ストローク市場が衰退すると言われる中で、「最後の本格スポーツバイク」として開発され、市場の流れを変える存在となった。
  • RZ250の登場は性能競争を加速させ、日本の250ccスポーツバイク市場を拡大させたゲームチェンジャーと評価されている。
  • 当時の開発はデータ分析よりも、エンジニアの情熱や直感など主観ドリブンのものづくりが大きな役割を果たしていた。
  • 1980年代の若者にとってRZ250は憧れの存在で、バイク雑誌ではホンダVT250などと比較されながら語られる人気モデルだった。
  • 著者は中学生時代にRZ250に強い憧れを持ち、実際に乗った体験が将来バイクに関わる仕事を目指すきっかけになった。
  • RZ世代の若者たちの熱狂や情熱が、後に日本の二輪メーカーのエンジニアや企画者を生み出し、日本のモーターサイクル文化の発展につながった。
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