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企画担当者のナイショの話

全てはここから始まった? 80年代のバイクブームもレーサーレプリカ全盛期も知らない若手企画担当がこれを作った理由とは。

企画担当者のナイショの話 企画担当者のナイショの話

カスタマーエクスペリエンス事業部

ユーキさん

遊び×好奇心×笑顔

ヤマハアクセサリー歴8年、アクセサリー商品企画でずっと働いてましたが、今ではタイでアクセサリーを普及中。バイクとの出会いは幼少期、8耐から。乗るのは得意じゃないので、見るほうが好きかな... 車のほうが快適だし、怖い思いもしてきたけど、バイクって乗るとなぜか楽しいですよね。不思議だなーと思いながら時々バイクに乗り、時々レースを見て、時々アクセサリーを普及している、そんな人です。

全てはここから始まった?
80年代のバイクブームもレーサーレプリカ全盛期も知らない若手企画担当がこれを作った理由とは。

企画編

パッケージ戦略のスタート パッケージ戦略のスタート

始まりは2020年9月頃。ACC企画メンバーが毎年行っている企画ワイガヤにおいてパッケージアイデアが生まれた。
“コト消費“の時代を生き抜くために、アクセサリーは何ができるか?

モノ消費:モノを持っているコト/新しいこと/機能…
コト消費:体験や経験が価値、それを人に伝えて共感を得ることが価値…

ヤマハ車は性能を高めているが、使用目的はお客様任せになっていないか?
“MCを買ったから○○をしよう”ではなく、“○○をしたいからMCを買おう”と思わせるようなACCを作りたい!

Motorcycle x Camping
ATV x Hunting
PWC x Fishing
Bike & Trekking

パッケージ戦略の検討 パッケージ戦略の検討

やりたいことは決まったが、それを達成するには大きな課題があるのは皆理解していた。
少なくとも目先のことで言えば、“本体製品部門の協力が必要”、“販売拠点が導入してくれない”といった課題は出てくることは通常業務の中で分かっていることだった。
社内にもっと仲間を増やすためにまずは実績を作ることが大切だと考えた。
“やらまいか!”といった感じで、まずはやりたい事をやろうとなった。

実績作り 実績作り

何で実績を作るかメンバーGr内で議論した。初めはMT09だった。台数も多く、ネイキッドということでカスタムのやりがいがあるという単純な理由。しかし、せっかくこれからパッケージACCを進めて行くのに、これだけでは弱いと感じた。
また、MT09は販売台数も多く、その後もトレーサーの導入が続くため、営業側も本体を売ることで必死になるだろうといった背景もあり、別の車両を考えることにした。
その時、デザイナーと会話する中で、XSR900で当初の構想にはあったものの実現できなかった世界観を見せてもらった。
その時にこれだと感じた。

XSR900起草段階 XSR900起草段階

XSRだと思ったのは、感覚なので言葉に表すのが難しいが、おそらく以下のように分析できる。

1

思いを乗せるバイク。ネオレトロモデルはメーカーの思いや歴史を乗せているモデルが多い。ヤマハもレースの歴史を乗せている。そういった各社のメッセージが色濃く出るモデルだからこそ、このモデルで我々のやりたい事を一番に示すべきだと感じた。

2

2ストの再来。コロナ禍の巣ごもりか、リターンバイカーの増加か、理由は分からないが、2021年くらいから急に2ストを街中で見かけるようになった。自分にはその思い出は無いが、このブームに乗っかり現代の車両で古いデザインを出せば受け入れられると感じた。

3

80年代への憧れ。先輩社員や父親が過ごした80年代に憧れがあった。バイクに乗っている同年代が周りに少なかった。先輩社員や父親の話を聞くと80年代は楽しそうだと思った。
そういった憧れとその人達が満足する“コト”を作りたいと思った。ある種、こういう方々が、オートバイ文化を支えてきてくれたと思えば、恩返しできることは幸せだと思った。

4

日本への注目。日本に注目を集めたいという気持ちもあった。先輩社員から日本のモーターサイクルショーやモーターショーの話を聞くと、もっと活気があったように感じる。日本メーカーなのに海外市場ばかりを重視するのは悔しい。もっと海外の目を日本に向けたい気持ちもあった。RZ250Rをモチーフにすると決まった際に、欧州バージョンのRD350(青/白)にする案もあったが、日本仕様の赤/白にしようと個人的には決めていた。

企画会議での検討用資料

発売準備編

XSRパッケージの開発 XSRパッケージの開発

XSRパッケージの企画を担当したが力不足を感じることが多くあった。

80年代って何? RZ250Rって何? レースレプリカって何?

採算合わない、モノづくりの基本を知らない…

① 80年代の勉強

「80年代はよかったよなー、毎日バイクを乗っていた。」と聞いたが、ナウいヤングな僕はその時代を知らない。ただ奇跡的にそれに詳しい人たちが周りにたくさんいた。
80年代は携帯もなく連絡も取れないが、なんとなく峠に行けばバイク仲間が居た。
やることもなく集まっては走り、走り終わっては喫茶店でバイクの話ばかり。
90年代に入ると人気は4stネイキッドになったが、速さと他人と被りたくないという点から2stもまだまだ生きていた。しかし、2stは徐々になくなり、バイク仲間も家庭ができバイクを降りていった。 時は経ち、子も育ち、今一度バイクに乗ろうと決心する。その時乗りたいと思うバイクは?当時の憧れや思い出が詰まっているRZ250(R)があればと思う方は多いはず。

② レーサーレプリカの勉強

各社、自社のバイクは速いと言うがためにレースに参戦し、一方で背負うカラーは日の丸の赤/白。USだけは独自の黒/黄色。
その後F1にならってレースを企業製品のPRに使えるという流れになり、たばこや飲料メーカーがスポンサード。当然それを真似しレーサーレプリカが誕生。当時の熱狂とメーカーの商品提供という需要と供給がバシッと決まり大きな輝きを見せた。

zoom
デザイナーからの提案資料

このような話を聞き、正直羨ましいと感じた。そして若者なりに、そこにアプローチしたいと思った。 もっと直接的に言えば、その人達に「良いの作ったねー」と言われたいと思った。

③ モノづくり

正直少数ロットの生産は厳しかった。採算が全然合わず、諦めたら楽になるとも感じながら必死にコストを交渉し、価格を交渉し、納得してもらうために色々な交渉をしまくった。
今でも、もう1回作れと言われたら少し身構えるほどにつらかった。 ただ、確実に売れると確信していたし、最後は先輩社員が責任をとってくれるような温かさがあった。何とか実現できる策を開発/調達と練りに練りまくって実現した。
正直、一番最初に大阪モーターサイクルショー(MCS)で発表する前日の夜も、調達担当と価格のやりとりをしていたくらいギリギリだった。

XSRパッケージの発売 XSRパッケージの発売

大阪MCSの反響を得てその次の週に生産承認を得た。そして翌週の東京MCSでは発売の宣言をした。僕自身、大阪・東京のMCSにはすべて説明員として立ったが、あの日感じた達成感はこの先も忘れないと思う。このPJを任せてくれて感謝です。

ただ、一番うれしかったのは、大阪MCSの際に販売店の方から、「こんな素晴らしいモノを作ってくれてありがとう」と言われた言葉だった。思わず泣いた気がする。
なぜ嬉しかったか。当初の課題に戻る。“販売や営業は売ってくれない”という不安感があった。しかし蓋を開けてみれば「ありがとう」の言葉だった。正直、「また売るのめんどくさい商品をだしてー」くらい言われるかと思っていた。この言葉がすごく刺さった。不信感を持っていたのは自分だけで、トータルヤマハをここで感じた。

発表・発売後もとにかく走り回った。思いをお客様に正確に伝えたかった。今こそ当初の目的である実績を獲得するべきと思い、色々宣伝し調査した。
結果として大きな反響とそれに伴う売上という実績を残せた。この実績と我らの経験が今後のパッケージ戦略を飛躍させるための礎になると信じている。

お店でお客様の声を聴く機会も

この記事のまとめ

  • 「コト消費」を意識し、商品を売るだけでなく、やりたい体験からバイクを選んでもらう企画が始動した。
  • 社内や販売現場の協力が必要という課題に対し、まず企画の価値を示す実績を作り、仲間を増やす方針を固めた。
  • 第一弾には、ヤマハの歴史やレースへの思いを色濃く表現でき、世界観を広げられるXSR900を選んだ。
  • 80年代への憧れや2スト人気、日本のバイク文化を盛り上げ、海外からも注目を集めたい思いを企画に込めた。
  • 80年代を知らない若手担当者は、先輩から80年代のバイク文化やレーサーレプリカの熱狂を学び、企画へ生かした。
  • 少数生産による採算や価格の壁に直面しながらも、開発・調達と交渉を重ね、発売直前まで実現策を模索した。
  • 大阪MCSで大きな反響を得て生産承認につながり、翌週の東京MCSではパッケージの正式発売を発表した。
  • 発売後は販売店や顧客から高い評価を受け、売上という実績も残し、今後のパッケージ戦略を支える礎となった。
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