あの頃の私には、理解できなかった。FZ750
社内で知らない人はいない生き字引き的社員が語る思い入れたっぷりの車両の系譜
全長 × 全幅 × 全高:2,225mm × 755mm × 1,165mm
車両重量:209kg
エンジン型式:水冷, 4ストローク, DOHC, 5バルブ, 並列4気筒, 749cm³
最高出力:56.6kW(77.0PS)/ 9,500r/min
最大トルク:68.6N・m(7.0kgf・m)/ 6,500r/min
販売価格(当時):¥798,000
※各モデルの説明や諸元で表記している数値などはすべて販売当時のものです。
参考:コミュニケーションプラザ FZ750 展示コレクションhttps://global.yamaha-motor.com/jp/showroom/cp/collection/fz750/

カスタマーエクスペリエンス事業部
企画戦略部
S1Rさん
先人の知恵に学びリスペクトした上で、新しい組み合わせで創造するのが好きです。誰でもできる後だしジャンケンが嫌いです。小さな創意工夫の連続でも振り返ってみると大きなイノベーション。そんなモーターサイクルカルチャー人生、残り少なし。
1985年に登場したFZ750は、5バルブGenesisエンジンをはじめ、その後のヤマハを象徴する技術思想を数多く生み出したモデルです。しかし、その大きな価値の理解には、前日譚とその後の功績を振り返る必要がありました。今回は、レジェンド社員が少年時代の記憶をたどりながら、歳月を経て見えてきたFZ750の本質と、ヤマハらしいものづくりの思想を振り返ります。
理解が出来なかったFZのスタイリング
TZR(1KT)の項で触れた「真正レーサーレプリカの祖」の話だが、当時の少年達(専門誌を読み漁るだけの丸坊主を含む)にはそれが本質なのか、過度なマーケティングからの虚飾なのかは判断がつかない。今ではエラそうに回顧録などを綴っているが、RG250Γがフルカウルを纏ったアルミフレームボディで登場し、NS250Rカタログに記載の別売りステッカーキットを夜な夜な眺めている過程ではもう、MVX250FもCBR400も古い時代のバイクに見えてくる。それほど、細かいアイテムに過剰に反応していたわけだ。ましてや大型車はVF750FやXJ750Dあたりが多少攻めたメカニズムとデザインだなと思うくらいでZ750GPもCB750Fも大きくて扱えるはずもない旧世代の何かに見えていた(マンガの中ではよく走るケド)。しかしカッコええオトナ達がガールフレンドを乗せているイメージはあったものの、中二病コジラセは何かと「新しさと速さは正しさ」「だからレーサーは偉い!」と何かの勝負から逃げる口実になっていたことを思い出して大変ムズ痒い。
プラザ合意を迎える1985年にはっきりと何かが切り替わる。中型レンジは相変わらずの過当競争が連鎖爆発。TT-F3からFZ400R(46X)、耐久イメージのGSX-R400!が、そしてTZRが!と、中免取り立ての貧乏高専生も夢が止まらない。一方の大型はここらでのVF1000RとかGPz900R等で潮流が変わり、ケルンショーで現れたFZ750が、油冷のGSX-R750がついに登場する。

5バルブGenesis思想というエンジニアリングの教科書の様なFZ750。あとになれば、機械電気工学科の青臭いガキのヤマハ就職を推したのはあの華麗なレイアウトとそれを表したテクニカルイラストレーションだったと気づけるが、「なぜフルカウルじゃないのか」には理解ができない。少しは賢くなったであろう’87であっても、バイト先のバイクショップ社長ツチダさんがいくら愛機FZの凄さを語ったとしても、ナベちゃんの水冷GSX-Rやタカハシさんの油冷1100の方が凄い。田舎のショップでもFZR750R(3FV/0W-01)は1台だけ納車があって、なぜ就職したてのトヨタセールスマンくらいで買えるのか不思議だったが、パチンコ屋のせがれだったと聞かされ合点がいく。貧乏学生にはTZRに履かせるTT500だけでも大出費だというのにオトナ達はボンボンと新車を買っていく。そして自分もヤマハに勤めるようになって3か月で、0W-01に最も似ている3GMをフルローンで買うことになるとは。
レーサーから起草された新世代ストリートバイクは、
すぐにレースフィールドに戻される
今でならネットだSNSだと情報は入ってくる。FZの怒涛の活躍情報はサイクルワールドとかライディングスポーツとかの高級誌立ち読みで仕入れるしかなかったから完全に取りこぼしていた。’84年9月IFMAで発表、翌’85年2月にGenesis概念の発表と共に国内発売。3月の鈴鹿2&4で“FZR”として走り出し、アメリカでも同日にデイトナ200マイルを戦って好成績。7月にはあの伝説の8耐DNFという悲劇が伝説となり、12月にはなんとパリダカにJCOが出走している。その3か月後に200をエディが獲り、4か月後の8耐ではまたTECH21は落とし、マギー/ドーソン組が2位をもぎ取る。これがちゃんと分かっていれば遠回りも無かったかもしれないし、なぜFZがあのカタチだったのか疑問も持たなかったろう。一方でヤマハ馬鹿じゃなかったからこそ培ったモノも沢山ある。
そもそも、レースエンジンとそれを活かすシャーシ構造を創造して市販化したのだから、それはそうなるだろう。かなり素性の良いものが作れたよね。と当時のレジェンド達はそう言うだろう。ここに詳細の開発モノガタリを拝借する。ヤマハ公式とそうでないものを読み取ってみるとFZを成す原型が見えてくる。それだけにまた疑問がモヤモヤと膨らんでくるわけだが。
1977年 YZR1000参考:FZ750 開発ストーリーhttps://global.yamaha-motor.com/jp/showroom/cp/collection/fz750/story/
※借り物:バイクの系譜https://bike-lineage.org/yamaha/yzf-r1/fz750.html
生々しいストーリーの行間まで読んでみても、綿密なマーケティングを経てFZとなったとは到底思えない、そして非常に諦めの悪いこの10年越しの物語を、私は大変に好きだ。その大元となったYZR1000(0W34/耐久レーサー)の背景を想像するときに欧州耐久選手権でのRCB無敵艦隊(‘76~)っぷりは外せないし、そのRCBもまた900SuperFour(Z1’72~)の奇跡的な台頭を止める為に仕組まれている。Z1ですらCB750Four(‘69~)を横目に「DOHC900で行く」と決められた(出典:Z1開発物語/種子島経)。焦燥感と悪夢に突き動かされて、10年先では通用しないかもしれない技術を刹那的に産んで、また失敗すら栄養にして未知の領域を彷徨いカタチにする。意思決定要素が複雑怪奇になった今、何かといえば「イノベーション」と刷り込んだマーケティングツールや広報物で溢れる日本の大企業様を見るにつけ、大先輩方の“突き進むその主観“はどのように獲得されたのか、そしてなぜそれが霧散してしまったのかそれを研究なさるのが肝要ではないでしょうかと想う。少し前の上司が「悪夢は見た方が良い」と言われていてかなり腹に落ちたことがある。素敵な未来をムーンショットしてバックキャストでイノベーション、ではない。これで負けたら終わりだ、この感覚でZ1もガンマもNSRもFZも産まれているはずだ。なぜなら上記モデルの前身は相当に負けているからだ。

話をさらに脱線させると、当時の断面をいくら詳細に読み取ったところで、そこに書かなかったことの方が多いだろう。なぜそのように考えたのか、に想いを馳せる必要がある。現代は非常に都合が良い道具が揃っている。それでも真実はどうせ分からないのだが、話の筋が掴めたならそのパターンで新創造のフレームも作れるかもしれないし、現代の新規機種の魅力再発見にも繋がるかもしれない。商品企画/製品開発のリヴァースエンジニアリングを繰り返す中で、クリエーションそのものの“型“にもリフレームできる可能性がある。なのでこのコラムでは「そうだったかもしれないね」くらいの軽い気持ちで読んで頂きたい(笑)。
唯一無二の新世代スタイリングと、その後
本題に戻そう。前述のごとく出自をレーシングに持つFZでありながら、デザインはFZ400R的なモノではない。はっきりとここから“Pure Sports”と新時代を宣言してはいるが、大型ではレースレプリカは作らない、もしくは、100ps超えの輸出仕様の事を考えた際に重要となる安定性や居住性を重視すると告げられている気がする。しかし実際には2年後にはフルカウルとなりその後のYZF世代に繋がっていくのだ。それだからと言って「無難にまとまった」「時代が読めてなかった」という気はさらさらない。国内での中型免許ゾーンでの狂騒と大型領域ではきちんと分けて考える、またはGPイメージは2stのRZVに任せて、この悲願の次世代4stは欧州/北米の高速ドライブで真価を発揮して欲しいと願われたのだろう。これだけ手間が掛かったモノを2年で作り替えるのではなく10年先にも愛されるようにしたい、だから流行を追わずに新機軸デザインを与えようとしたのは想像に難くない。
のちに定義される「人機官能」を想えば、重く幅広な4st4気筒の開発にそれほど熱心ではなかったろう’70年代後期に、レーサーではあるがようやく他社を蹴散らせる新手段が確立した。しかも超高速領域を制したFJ1100の車体技術とスタイリングの新しい流れも有る(※1)。デザイン合意を得なければいけない成熟した欧米拠点とも意見の合致を見ただろうし、日本のバイクブームはふざけたモノに見えていたであろう。そこへのアンチテーゼであったかもしれない。こっちが本物だと。
1984輸出用FJ1100カタログより引用- ※1:
- 系譜シリーズでFJに書き起こすことは無いと思うので触れておくと、いくつかのオーナーズクラブとの付き合いがある中で最もXXXな走りをするのはFJクラブだった。もちろん腕も良いのだが、彼らが完璧に信用するFJ1100/1200のパワフルさとコントロール性には驚かされた。当時最新鋭のFazer1000で着いていくのが精一杯…欧州でロングヒットになるはずだわ、と感嘆。こうした高い評価がFZのスタイリング論にも影響したはずだ。
ただ、後日談がある。切っ掛けは前述のGSX-Rでもあるし、’87欧州専用モデル(すなわちover750㏄企画)でもある。日本市場においては、欧米向けの押さえの効いたFZの流麗スタイリングよりもRナナハンの車体装備やサーキット帰り?な雰囲気が人気であった。クチの悪い愛すべき?販路からは「ヤマハのエンジンをRに積めば完璧」との暴言ギリギリも聞こえてきたそうだ。こういったことに耳を貸さないヤマハのやり方も私はかなり好きだが(本心)、お客様に仮説を訊くのもまた重要。マイチェン検討中のスケッチは(表現はかなり不正確だと思うが)当時のVFR750F-Interceptor的な発展を模索していた。そこに島国レーサーレプリカのカタログを加えて欧州現地調査に飛んだそうだ。そうして(詳しくは書けないが)結局フルカウルと大型のサイド/テールを備えることとなり、新しいスーパーバイクレギュレーションに準じてYZF750を分家させつつもFZR1000としてエアロダイナミクスを得た超高速ツアラーとして生きることになる。そしてどうしても「新しい地平線を」試したいという、しつこい流れはThunderaceへと続いていく。
1988年 FZ750
1990年 FZR1000「だからレプリカにしとけば楽に済んだのに」と後だしジャンケンで悦に入るとバイクファンには程遠い。人間、特にオートバイ乗りというのは変なものに凝るもので、「ストリートマシンで闘う」「あんなものでこんな工夫で勝つ⁉」ことがスポ根マンガ的な最上のカッコよさに見えることがある。ほぼノーマルルックと改造ハンドルでデイトナを走る#4エディ・ローソン機や#19フレディ・スペンサー機が無茶苦茶素敵に見えていたし、8耐を走るTeam38/Ninjaに身もだえするワケで。試行錯誤中の無理や無駄にも美学がある。この感覚はのちのビッグバイクカスタムの潮流を生み出すエネルギーにも繋がっているはずだ。

またも溢れ出る“らしさ”の正体とは
FZまでのヤマハは、まるで他社の大型化や多気筒化を静観し、追従を拒んだような節がある。もちろんXS1100を造り、すぐさまXJ900/750で背面ジェネレータ化してスリムさを取り戻すなどの模索はあった。そうしたフラッグシップ構築よりも、オフロードやソフトバイクと連携したカルチャー創造にも注力しなければならないし、欧米向けクルーザーの展開や各排気量でのTZ進化も忙しい。気が乗らないからやらない(?)といった主観先行型の気概はとても“らしい”のだが、その裏で手の込んだ5バルブダウンドラフトを「社内を騙してでもやる」のも、これまた“らしい”のである。こういったことは外部からは相当見えにくいと思われるからこそ、妄想に見えても良いので記しておきたいことである。
<左:XS1100 / 右:XJ750>※筆者撮影また「統合的な技術思想」を組むというヤリクチを踏襲していくところにも、極めてヤマハらしさを観ることができる。電子制御時代に講じられたG.E.N.I.C.H(ジェニック)思想は、GENESISが心肺機能や骨格系に例えられるのに対し、燃料噴射/スロットル/吸気管長切り替えなどを電制アクチュエイタに置き換える、まるで電子ピアノやシンセサイザを思わせる技術体系(YCC-シリーズ)だったが、昨今のTracerのミリ波レーダーやマトリクスヘッドライトを見るに、今度は知覚系をやっているということか、と理解が進む。故人となった栃澤アニキに最新型GTを見せてあげたい。どうコピーライティングするだろうか。
最後に、本当にどうでもいい話だが、情報がない、ハチタイをテレビでも見られない、しかしどうにか耐久の臨場感を自分も味わいたいと九州の中学生が願えばどうするのか。友人と日曜日の学校のグラウンドに忍び込んで、見様見真似で鈴鹿のコースレイアウトを引いて通学チャリをホームストレート上に置いて11:30へのカウントダウンを唱えるしかないのだ。確か6人は居たので3チームに分かれ10分交替でペダルを回すわけだが、ものの5分で自分実況中継にも飽きて、その後30分で誰かが「もう腹減った」と言って終了。最大の問題は立体交差部分で他のチームと接触しないように間合いを取るところ。ダンロップを回ってデグナー侵入時に、スプーンから立ち上がってくるヤツが居ないか左方を確認しなければいけないというスリリングライド。こうやってチャリでみっちりとマシンコントロールを鍛えてから練習機ミニトレを入手するワケで、ミカン山ダートでのコントロール術を求めて万沢康夫氏の書籍にもあたる。そして、無免許のうちにしっかりと上手くなるにはモトクロスしかないのかと気づき始め、一斉に新聞配達を始めることになる。
1990年秋、北摂某所にて3MA乗りのサービスセンター同僚T君と
FZ乗りの大好きな先輩営業マンのKさんと。
当時のカタログをご覧いただけます
この記事のまとめ
- 1985年に登場したFZ750が切り開いた、5バルブGenesisエンジンと新世代スポーツの思想
- 当時は理解されにくかったFZ750のスタイリングと、時代を先取りしたデザインの本質
- レーサー由来の技術を市販車へ落とし込み、再びレースで実力を証明した開発背景
- 耐久レースやデイトナ200マイルでの活躍から読み解く、FZ750本来のポテンシャル
- フルカウルを採用しなかった初期型FZ750に込められた、高速安定性と居住性への配慮
- FZ750からFZR1000やYZF750へと受け継がれた、ヤマハ大型スポーツモデルの系譜
- 流行を追わず独自の技術思想を貫いた、ヤマハらしい商品企画と開発姿勢
- 歳月を経て見えてきたFZ750の価値と、失敗や試行錯誤から生まれるものづくりの魅力