55mph - 大人になって、バイクで「冒険」しましたか? みんな風間深志になりたかった。
世界的な冒険家である風間深志は、明快な“言葉”でバイクを語ることのできる数少ないライダーのひとりである。これまでの冒険の軌跡やインタビューを通し、改めてバイクの魅力に迫る。
バイクの魅力って何だろうか?
風を切る爽快感か、マシンとの人馬一体感か、あるいは刃物のように研ぎ澄まされた機能美か。いずれにしてもバイクの魅力は感覚的、人間の感性に訴えかけるものであって、便利であるとか、快適であるといった概念で測るものではないだろう。効率的に移動するだけならば他に適した乗り物は沢山ある。
自己の体験を鑑みて、ひとつはっきり言えるのはバイクは人間の感受性を増幅させる機械だということ。あらゆることに対しての先入観が薄く、見るものすべてが鮮烈に感じられたピュアな少年の心になれるのである。同じ道を走ってもクルマとは見る風景が異なり、未知なる場所への好奇心、冒険心をいたく刺激されるのはこれに由来する。
クルマが「どこまでも行ける」乗り物だとすれば、バイクは「どこまでも行きたくなる」乗り物。人間を冒険へといざなってくれるツールなのである。
とはいえ、大人になって社会生活を営む以上、どこかで折り合いを付けなければならない。小さな島国に住む我々日本人が実際にどこまでも走ってみせるのは決してお安いロマンじゃない。筆者を含むほとんどのライダーは冒険への憧れを心の奥底にしまい、今日もいつもの道でマシンを走らせていることだろう。
だが、そんなバイクの本質にどこまでも正直に向き合い、50年間にわたって走り続けるライダーがいる。風間深志その人だ。代表的な冒険行であるエベレスト登攀や北極点、南極点への挑戦はバイク乗りの、いや、少年の究極の妄想をストレートに体現したものに他ならないのだ。
何かにつけ合理的であることが尊ばれる時代のなかで、バイクを取り巻く環境、意識も大きな変化を迎えている。だからこそ過酷な挑戦によってバイクの「核心」に触れた風間深志の言葉は、その魅力を再確認するための大きな手掛かりになるのではないだろうか。風間さんは世界的な冒険家でありながら、明快な"言葉”でバイクを語ることのできる数少ない人物である。話を聞いているうちに、別世界のことのように思えた壮大な冒険の数々が、じつは誰でも共有できる感覚と地続きであることが分かるだろう
バイクは冒険だ。彼も、彼女も、私も、貴方も、みんな風間深志になりたかったのだ!
「バイクは自然とつながるための媒体なんだと思う。」
「僕の場合、バイクに没頭するきっかけとなる原体験があったんだよね。それは実家の裏にある霞森山(かすもりやま)(標高504m)の山頂までバイクで登ったこと。町の出初式を見てさ、僕はやぐらに登る大人たちに対抗してもっと高い山に登ってやろうと考えた。なぜバイクかといえば、すでに誰よりも上手く操れるっていう自負があったから。ただ、実際にやってみると想像していた以上に大変なことだった。もちろんバイクで走れる道なんて整備されていないから、押して進むしかない。約6時間かけて頂上にたどり着いたときには1月にも関わらず全身汗だく。でも、そこからの景色にえらく感動してね。目に映っているのはよくある山の風景に過ぎないんだけど、他の誰もやったことのないことをやり遂げたという達成感と相まって心に響くわけ。頭の中では無限に続く地平線が見えたわけだよ」
ある程度、年季の入ったらライダーならば、バイクがもたらす快感はいつだって苦痛と表裏一体であることを知っていることだろう。真夏の風、真冬の缶コーヒー、雨後の晴れ間……。まだ10代だった風間青年はバイクで山を登るという濃厚な体験の中で普通のツーリングを遥かに凌ぐ快感を得たのだ。
「バイクという乗り物がなぜ面白かを考えるとさ、やっぱりエンジンが付いてることが大きいと思うんだ。ヒトの何倍もの力が発揮できて、なおかつ五感を駆使して自在に操ることができるというね。自分の肉体だけでは決してできないようなダイナミズムが得られるのに、自分の手足を動かしているのと同じ充実感がある。スーパーマンになれるんだよね」
もっとも、バイクが身体に一部になるにはそれなりの訓練が必要だ。風間さんは16歳から10年間、モトクロスレースに明け暮れ、テクニックを磨いた。チャンピオンになったことだってある。
「20代の頃は何をやっていても頭の中はバイクのことを考えていた。バイクとは何か? バイクで何ができるのか?ってね。結局、自分にとってのバイクはレースではなく、夢を抱きながら未知の大地を走ること、すなわち冒険であることに行き着いた。霞森山(かすもりやま)を登ったときに見た心象風景。どこまでも続く地平線を自分は目指そうと思ったんだ」
ここで我々がよく考えたいのは「冒険」という言葉の意味である。その内容は人によって相対的に変化するはずだ。重要なことは辺境に赴くことではなく、理想や希望を投影できるシチュエーションに向かい一歩を踏み出す、そのプロセスだろう。若き日の風間さんのように裏山が冒険の舞台になることだって充分にありうる。
「で、その後の冒険によって何を得たかというと、バイクで走ることの素晴らしさというのは、つまるところ我々を取り囲む「自然」あるいは「宇宙」の素晴らしさだったんだよ。バイクはそれを深く知るための媒体なんだと。例えば講演のときにバイクを通して見る自然の美しさについて説くと、乗ったことのない人でも目を輝かせて聞いてくれる。バイク自体に興味をもつ人は限られているけれど、その魅力には普遍性があるんだよね」
普通の人が一生をかけて少しずつ理解していく「真理」のようなものを、風間さんはバイクによる過酷な冒険によって一挙に手にしてしまった、話を聞いているとそんな風にも思える。
「実際に極限状況に身を置くと物事の本質に触れられる瞬間もあるんだよ。例えば北極に行くじゃない。マイナス40℃以下の世界。普通のバイクでは話にならない。タイヤやシートは石のようにカチカチ、オイルはグリスみたいになっちゃうんだから。じゃあそういう場所で機能を失わないものが何かといったら天然ゴムや天然皮革、人間の皮膚、髪の毛なんだよね。氷河期を生き抜いたものだからさ。そういうことを体感的に知ることができるのが冒険なんだ。バイクに限らず、科学でも芸術でも、物事の真髄を掴もうとするなら何がしかの冒険が必要なんだと思う」
風間さんは22年ぶりに出場した2004年のダカールラリーで大きな事故にあい、左足に機能障害が残るほどの怪我を負った。だが、以前のようにバイクを操れなくなったとこぼしながらも風間さんはいまも冒険を続けている。昨年は三男の晋之介さんとともに「バハ1000」に出場。今年5月にはその晋之介さんのサポートでモロッコの「メルズーガラリー」に同行した。最終目標は親子二人三脚での2017年ダカールラリー完走だ。
「これまで何度も国際ラリーに出ているけど、自分が走らないケースってのはこのメルズーガラリーが初めて。やっぱり走れない事に対する歯がゆい気持ちがあったね。でも、昨年バハ1000を走ったときに全然ダメだったから仕方がない。あのときは膝が曲がらなくて、明らかに技量の劣るライダーにも抜かれるのがとにかく悔しくってさ(笑)」
冒険の扉はいつだって目の前にある。65歳の風間さんに続こうじゃないか。
SHINJI KAZAMA
1950年山梨県山梨市生まれ。1972年から80年まで月刊『オートバイ』で編集者を務め、当時はまだなかった「オフロード」という概念を日本で初めて提唱する。80年にアフリカ大陸の最高峰キリマンジャロへバイクでアタックしたことを皮切りにバイク冒険家として数々の偉業を成し遂げる。88年には全国の地方自治体と協力し、野外遊びを通じて自然への理解を深めることを目的とした「地球元気村」を主宰(のちにNPO法人化)。08年より「WHO運動器の10年」国際親善大使にも就任している。
昨年、風間さんの故郷、山梨県山梨市にある「道の駅みとみ」に「風間深志が冒険に使用したバイクの博物館 SHINJI KAZAMA Motorcycle Museum」がオープンした。南極点に到達した「ウィスパ―ダンサー」などのマシンはもちろん、ヘルメットやウェア、ギア、遠征の模様を伝える写真や新聞記事も展示されている。なお展示内容は数カ月おきに入れ替わる。
道の駅 みとみ
山梨県山梨市三富川浦1822番地1
http://michinoeki-mitomi.fruits.jp/
「風間深志の冒険」
キリマンジャロ登攀
(1980年)
月刊オートバイ誌の編集部を辞めた風間さんは、盟友、賀曽利 隆氏、鈴木忠男氏とともに標高5895mのアフリカ大陸最高峰をバイクで登頂するというとんでもない挑戦を行う。しかし、想像を絶する悪路に阻まれ道半ばで下山することになった。
日本人初のパリ・ダカール参戦
(1982年)
まだ冒険ラリーの趣が強かった初期のパリ・ダカールラリーに日本人ライダーとして初参加。すでにアフリカを何度もツーリングしていた賀曽利 隆氏が一緒だったが、ルートブックに記載されているフランス語はおろか、ラリー競技のルールすら分からないまま手探り状態で走ったという。見事完走し二輪総合18位の成績を残す。この記録は日本人ライダーの最高位として16年間破られることがなかった。風間さん曰く「いま思い出しても無謀過ぎるよ。ルートブックはどうせ読めないからとフランスに捨ててきちゃうし、サポートもなければ予備パーツだって持ってないんだから」とのこと。
エベレスト挑戦
(1984年、85年)
パリ・ダカールラリーへの参戦以後、風間さんは地平線の限界を見極めることをテーマにした冒険に挑むようになる。風間さんにとって世界最高峰エベレストの頂も垂直方向の地平線だったのだ。84年に5800m地点に到達。翌年にルートを変えて再度登頂に挑み、高度6005mの世界高度記録を達成する。
北極点への挑戦
(1987年)
地平線の限界を極める、風間さんの身を焦がすような情熱が行き着く最終地点は北極点と南極点というふたつの「極点」だった。北極のマイナス40℃から60℃という過酷な気象条件を進むために特別な素材を用いて特別な設計で作られたスペシャルマシンが用意される。発売を直前に控えたTW200をベースとするものの、エンジンは寒冷地での始動性に優れる2ストロークに換装され、シートやタイヤ、配線類に至るまですべて特性品。車重はわずか90㎏に抑えられていた。氷原に積もった雪によるスタックと、ときおり表れるリード(氷の亀裂)におびえながら黙々と前進。スタートから47日目でバイクによる史上唯一の北極点到達という偉業を成し遂げる。
南極点への挑戦
(1992年)
南極点への挑戦はただバイクで到達するだけではなく、環境とモーターサイクルの共存が大きなテーマとなっていた。そのため、相棒のスペシャルマシン「OU70ウィスパーダンサー」は南極の雪原を走るための踏破性に加えて、市販車を遥かに下回る低騒音、低公害が求められた。開発に1年以上、製作費は1億円以上にものぼったという。ちなみに超低温の世界で動くように設計されているため、常温で走ることはできない。南極大陸の雪原ではバイクの車輪はいとも簡単に埋まり、クレバスの脅威にもさらされることになった。1㎞移動するのに1時間を要することさえあったという。ベースキャンプを出発してから28日目、アムンゼン・スコット基地の隊員達に出迎えられながら南極点への到達を果たした。