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鋳造歴史物語 Vol.6 強き人、強き会社

メーカーの基盤として製造の現場を特に重視し、製造技術を研鑽し続けてている弊社。現在、そして未来へとつながる歴史物語を紐解きます。

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Vol.6 強き人、強き会社

グローバル展開の根底

「世界に通用するモノ造り」を標榜し、
創業当時から海外進出に積極的に取り組んできたヤマハ発動機。
ただ現地に設備と金型だけを送り込むというスタイルは、
ヤマハ発動機の鋳造技術者たちの性分には合わない。
彼らが常に選ぶのは、手間がかかり、だからこそ成果につながるやり方である。

 1989年を頂点としてバブル景気に浮かれていた日本だったが、1990年に株価が急落。以後10年にわたって、長期不況に見舞われることになる。日本国内の個人消費はすっかり冷え込み、モーターサイクル業界、舟艇業界ともに減少の一途を辿っていた。そんな中でもヤマハ発動機は売上高を順調に伸ばし続けることができたのは、アジア諸国での販売好調が大きな要因だった。

 日本が長期不況にあえぐのとは裏腹に、アジア諸国の経済は80年代後半から90年代前半にかけて大きく成長し、それに伴ってモーターサイクル市場も右肩上がりという状況だった。すでにグローバル化を進めていたヤマハ発動機は、アジア諸国での事業をひときわ活発化させていた。ニューモデルが続々と投入され、そのたびに大々的なキャンペーンが打たれて話題を振りまいた。その躍進を支えていたのが、製造部門の地道な努力である。

 モノづくりは人づくり──。製造業界ではよく聞かれる言葉だが、ヤマハ発動機磐田製造部はどこよりも深くその重要性を認識している。「鋳造設備と金型さえあればいいというものではない」とヤマハ発動機の鋳造技術者たちは口を揃える。優秀な人材によるオペレーションがあって初めてQCDが維持管理され、向上していくのだ。それは海外における鋳造事業の展開においてもまったく同様だった。

 1996年7月、ヤマハ発動機はインドネシアに二輪車部品を製造するYPMI(PT. Yamaha Motor Parts Manufacturing Indonesia)を設立。翌年から本格的に鋳造部品の生産を開始した。それ以前から当地でも部品の鋳造を行っていたが、塗装や部品組立など広範にわたって製造を担う海外生産部の業務の一部、という位置づけだった。YPMI設立後は鋳造部門を設け、鋳造専門工場を展開することにより生産量や品質を一気に高めたのである。

YPMI

各国の法遵守を励行しながら、現地での生産販売体制を増強する──。インドネシアでは'96年、それまでの現地法人をさらに強化すべくYPMIを設立(写真①~⑥)。翌年には鋳造部門を設け、現地生産化率と品質の両輪を向上させた。

 創業以来、ヤマハ発動機は長きにわたって2ストロークエンジンを得意としてきた。低コストで軽量コンパクトかつハイパワーを実現できる2ストロークエンジンだったが、規制対策や環境対応のため、80年代半ばから先進国では4ストローク化が進められた。そして90年代半ばになると、ASEAN諸国にも4ストローク化の波が押し寄せていた。現地に鋳造専門工場を稼働させることには、4ストエンジンを一気にレベルアップするという狙いがあった。また、当時のASEAN諸国は国産化率の向上を推進しており、そこにココム、新ココム(ワッセナー・アレンジメント)などの協定も絡み合い、法遵守のために必要な措置という側面もあった。

 ヤマハ発動機 磐田製造部には、日本の本社をマザー工場として、各海外拠点においてもまったく同等レベルのモノ造りを行おうという、強いグループ意識がある。日本と同等の鋳造設備──グローバル標準鋳造機を各国に配置することで、日本で造った金型をそのまま使用でき、同一の材料、同一の工法により、国の内外に関わらず高品質な鋳造品を製造可能にするというものだ。YPMIの設立にあたり、ヤマハ発動機の担当者は当時の通産省(現・経産省)に足繁く通い、設備を輸出するためにエクスポートライセンスの取得などに骨を折った。

製造現場

製造現場における人づくりをかねてより重視していたヤマハ。新しい技術やモノ造りを積極的に採り入れようとする現地の人々の熱意と相まって、グローバル化は順調に推し進められた。

 そのこと自体も大変だったが、それらと同等以上に力を注いだのが人材育成だった。「1番苦労したのは人づくりです」と、当時の担当者は振り返る。「設備や金型を日本から運び、インドネシアで稼働させることはできる。でも、もっとも重要なのは現地の人たちに使いこなしてもらうこと。人の教育には力を入れました」。インドネシアの人々も、今までにない技術やモノ造りを勉強することに熱心だった。貪欲なまでに日本のモノ造りを吸収し、自分たちにものにしていった。

 ヤマハ発動機は、かねてより人材育成に力を入れている。モーターサイクルを始めとして常に手間がかかる複雑な製品を手がけてきた分、新しい製造技術を積極的に採り入れるのと同じぐらい、その技術を使いこなすのは人であるという認識のもとに、人材育成に積極的だ。この姿勢は、海外での事業展開においても同様である。

 海外拠点のモノ造りを強化するにあたっても「設備を投入したら、あとは現地任せ」というスタイルはヤマハ発動機の性に合わない。現地に日本人スタッフを派遣して技術講座を開催したり、現地スタッフを日本に招いて長期間にわたって本社工場や設備メーカーで技術を学んでもらう。これらの取り組みは、手間と時間がかかる地道なものだ。だが、優れた土壌にこそ優れた農作物が育つように、着実な成果をもたらすやり方でもある。YPMI設立当時、若手として多くを学んだ現地スタッフが、今では各課課長や工場長などの要職に就き、インドネシアでのヤマハ発動機の伸展の牽引役となっていることが、その証だ。

 ここではインドネシアにおける鋳造事業を紹介したが、ヤマハ発動機は中国、台湾、タイ、ベトナム、インド、ブラジル、そしてフランスにおいても同様な取り組みで成果を挙げている。各国毎に事情や経緯は異なるけれど、どの国においても高品質な鋳造製品が可能という点は変わらない。そして、その実現のために人材育成を重視しているという点も。

 鋳造技術はあくまでも人によって支えられているのだ。ヤマハ発動機の鋳造技術者は、こう語る。「どんなに標準化、自動化が進んでも、鋳造はどうしても携わる人のスキルが仕上がりを左右する。これは鋳造に限った話ではなく、製造業ならどんな職種でも少なからず『人次第』という側面がある。不良品を造るのも人なら、良品を造るのも人なのだ。鋳造は、それがより色濃い世界。人が強ければ、会社も強い」と。

 ヤマハ発動機がYPMIを設立し、鋳造専門工場を立ち上げた1997年、タイでアジア通貨危機が発生。これが短期間で伝播し、アジア諸国の経済は大打撃を受けることになる。劇的な浮き沈みにヤマハ発動機も少なからず影響を受け、鋳造部品の生産量も減少傾向を示した。だがそれは、別の道、新たな道を拓く好機でもあった。アルミ鋳造=エンジン部品という考えをさらに押し広げて、車体部品への展開を進めたのである。まさに「強い会社」の面目躍如だった(つづく)。

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