あまり意味はなく、でも少し意味がある小説仕立てのバイク読み物 Vol.1 ~屁理屈をまくし立てながらバイクを運転する男、その後ろに乗る女~ 燃費について語る時、僕が語りまくること。
- 2017年6月29日
「風になったみたい」とヒヨドリが笑った。彼女の本当の名前は誰も知らない。知ったところで意味はない。彼女はずっとヒヨドリだったし、恐らくこれからも変わることなくヒヨドリのままだ。タンデムシート──バイクの後部座席──で、ヒヨドリは言った。
「このままずっと走り続けて」
僕も彼女もヘルメットを被り、風を受けている。彼女の声は途切れ途切れだったが、確実にそう聞こえた。
「ずっと?」
「そう、ずっと」
「残念だけど、それは不可能だ」と僕は言った。
「バイクの燃料タンクには限りがあるからね。それに、君は燃費というものを知ってる?」
「燃費......?」
「そう、燃費。1リットルのガソリンで何キロ走れるかってことなんだ。ひどく現実的な数字だよ。例えば僕たちが今乗っているこのバイクには、16リットルの燃料タンクが装着されている。そして燃費はだいたい30キロ、つまり1リットルで30キロ走行することが可能だ。分かるかい? 1リットルで、30キロ。そして燃料タンクは16リットル。30かける16は、480。つまり僕たちはこのバイクで、最大480キロしか走行できない。ずっと走り続けることは不可能なんだ。ただし君も知っていることだけど、ロードサイドにはどこにでもガスステーションがある。この国は便利なんだ。そして僕たちには権利がある。呼吸する権利と同じように、給油する権利がね。ただし、現金かクレジットカードか、何らかの支払能力を持っていれば、の話だ。
ガスステーションでは、店員が少し退屈そうに、でもそれなりの緊張感を持って待ち構えている。バイクで乗りつけた僕たちを見かけた瞬間、彼はハンペルマン人形のように突然こう叫ぶだろう。
『っしゃっせー』ってね。
いいかい? 突然、『っしゃっせー』だ。
僕だって人間的な感情を持っているからね。
驚くよ、そりゃあ。何しろ『っしゃっせー』だから。分かるかな? つまり彼は、『いらっしゃいませ』と言っているんだよ。
ところで君は、動物がなぜ進化したか分かるかい?
時間だよ。時間が有り余っていたんだ。
途方もない時間があれば、そりゃあ進化でもするより他ないだろう。
そんなわけで、彼は退屈な時間に任せて『いらっしゃいませ』を進化させていった。
自分なりにね。
そうでなければ『っしゃっせー』なんて叫んだりしないよ。
でも、聞き返してはいけない。僕たちに許されているのは、会釈か、そうだな、せいぜい曖昧な笑顔だけだ。
君なら会釈と曖昧な笑顔、どっちを選ぶ?」
ヒヨドリは迷わず答えた。
「曖昧な笑顔ね。あなたの退屈な燃費の話を聞く時と同じ笑顔」
タンデム走行──つまり二人乗り──で、彼女は少し疲れて苛立っているようだった。
「ひとつだけいいかな」
「どうぞ」
「燃費を1キロ向上させるために、僕がどれだけ苦労しているか知ってる?」
ヒヨドリは間髪入れずに答えた。
「皮を剥かず、丸ごとそのままの状態でエサ台に乗せられているミカンぐらいの手強さでしょう?」
「ミカン......」
正直なところ彼女の言い分はよく分からなかった。
無駄な加減速をしない。ていねいにスロットルレバーをひねる。エンジン回転数を無駄に高めない。燃費向上につながるこういった丁寧な操作と、ヒヨドリが丸ごとのミカンと格闘している姿とは、僕の中ではうまく一致しなかった。しかし反論したところで、無用で面倒な言い争いを招くだけだ。
しばらく経ってから「大事なポイントがあるんだ」と僕は言った。
「大事なポイント?」
「ああ」
「私にとって? あなたにとって?」
「君と僕にとって。正確には、全人類にとって」
「それは聞くしかないわね」
「ポイントは、空気圧だ」
「そうね。空気圧が低下するとタイヤの転がり抵抗が増えて、確実に燃費が悪化するわ。特にバイクの場合はハンドリングにも大きく影響するから、日頃こまめにタイヤの空気圧はチェックすべきね。ところで、あなたが最後に空気圧をチェックしたのはいつ?」
「そんな昔のことは分からない」
「そしていつチェックするつもり?」
「そんな先のことは分からない」
「ふう」
わざとらしい大きなため息が風に乗って聞こえてくる。僕の腰に回している彼女の腕から力が抜けたようだった。「降りたければ、降りてくれても構わないよ」と、思わず言いそうになる。軽量化も燃費向上に大いに役立つからだ。僕はその衝動を懸命に抑え、ゆるゆるとスロットルをひねり続ける。心の奥の誰にも触れさせない部分で、燃費、燃費と唱える。
「燃費、燃費、ねんぴ、ネンピ、ネン、ピー、ピー、ピー、ピイイイィィィッ!」
僕のタンデムシートには、確かにヒヨドリがよく似合う。
- 2017年6月29日