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マリン事業の歩み 『ヨットレース』

常に優勝を目指し挑戦したヤマハヨットレースの歴史を振り返ります。

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世界一への挑戦

「Wing of YAMAHA」の優勝からアメリカズカップ挑戦艇まで、レーシングヨットの建造とその挑戦

セーリングディンギーから始まったヤマハヨットシリーズ

 風という自然の力を授かりヨット(セールボート)は初めて乗り物として機能する。大海原を自由自在に走り、島から島へ、港から港へとクルージングするのはどこか牧歌的な様相をイメージするが、自然の中で遊ぶからには、必然的に冒険的要素が絡んでくる。またエンジンを使わず風の力だけでフネを走らせ、セーラーのシーマンシップとスピードを競うエキサイティングなヨットレースは過去、多くの人々を虜にしてきた。ひたすら「挑戦」しながら駆け進み、「感動」を得ることのできるこのマリンスポーツへの取り組みは、ヤマハの企業姿勢を60年の歴史の中で随所に体現してみせた。
 1964年、「セール12」が発売された。このローボートにセールを付けただけのシンプルなセーリングディンギーが、ヤマハによって世に送り出された初めてのセールボートだった。そして翌年にはカタマラン型のセールボート「SC-14」を発売。一時は市場形成にいたらずヤマハのセールボートは生産中止となったものの、60年代も末になると国民所得の上昇、余暇時間の増大とともに、ボート、ヨットを中心とするマリンレジャーのすそ野が急速に拡大し、ヤマハはセールボートの事業を再開。1969年10月には米国のコロンビア社と技術提携し、セールボート用のFRP技術などを導入。翌年にセーリングディンギー「ヤマハ15」と、ファミリークルーザー「ヤマハ22」を発売すると、瞬く間に市場に受け入れられた。ここからヤマハのセールボート事業が本格的にスタートした。

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ヤマハが初めてセールボートとして発売した「セール12」

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ファミリークルーザーというジャンルの先駆けとなった「ヤマハ22」

「Wing of YAMAHA」から始まった優勝へのチャレンジスピリット

 これまでヤマハが関わってきた数多くのヨットレースは、自社が製造するセールボートの開発やそのためのテスト、さらには宣伝の側面もあったが、設計や製造にかかわるヤマハマンたちは、いずれそのセールボートを所有することになるはずのオーナーの夢や、レーサーのチャレンジスピリットを自分たちのものとして、仕事に取り組んでいた。
 ヨットレースに関わるその第一歩となったのは「太平洋横断シングルハンド・ヨットレース」だった。このレースは1975年7月に開幕した沖縄海洋博覧会のビッグイベントとして企画され、広大な太平洋を一人でヨットを操り横断する過酷なレースだった。きっかけは当時国内のヨットレースで活躍していた戸塚宏氏のレース艇の提供申請によるものだ。レースまで7ヶ月という短期間のため艇体建造が実現可能か否かという判断に迫られたものの、戸塚氏の熱意とチャレンジスピリットを企業風土とするヤマハにとっても挑戦すべきとの声が社内に強く、トップを動かした。
 建造決定後は「勝てるレース艇」を目指すプロジェクトチームを編成し、静岡県の新居工場で建造が始まった。
 まずはすべての要件を盛り込んだ1/2縮尺の試験艇をつくり、帆走テストを繰り返しては何度も図面を書き直すという手順を踏み、設計に2ヶ月、製造に2ヶ月という短期間でレース艇を完成させた。全長、10.67m、最大幅3.38m、排水量3.0トン。「Wing of YAMAHA」と名付けられたレース艇は、軽量で操船しやすい滑走型であり、気象変化の激しい太平洋でもコンスタントに帆走できることの2点を特徴としていた。
 「Wing of YAMAHA」はレーススタートとなった9月21日にサンフランシスコ湾を出航後にトップを奪うとその後一度も譲ることなく6500マイルの長丁場を走り抜き、ゴール地点となった沖縄海洋博会場に着岸。所要時間は41日14時間33分と他艇を寄せ付けぬ独走で圧勝した。
 ヤマハレーシングヨットの快走はその後も続き、翌76年4月29日の沖縄-東京1500キロのヨットレースで「マジシャンⅡ世(ヤマハワントナー)」が総合優勝を果たすと、78年には「マジシャンⅤ世」がクォータートンワールドカップにおいて総合優勝し、クルーザーヨット世界選手権において日本勢初の栄冠を手に入れた。

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太平洋横断シングルハンド・レースは参戦当初から優勝が目標とされていた

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クォータートンワールドを制覇した「マジシャンⅤ世」(写真一番手前)

アメリカズカップへの挑戦とホイットブレッド世界一周レースにおける栄光

 さらに80年代に入るとスーパーウィッチのパンナムクリッパーカップ(ハワイオーシャンレーシングシリーズ)でのクラス優勝などを経てIOR艇の建造ラッシュを迎え、プロトタイプに限らず数々のレーサーが国内外のレースで活躍した。こうしたインショア、オフショアを問わずさまざまなカテゴリーで活躍したヤマハレーシングヨットの最大の挑戦とも言うべきレースがアメリカズカップである。インショアレースの最高峰と謳われ、150年以上の歴史を持つアメリカズカップにはシンジケートの一員として、またオフィシャルビルダーとして参戦した。アメリカズカップには世界に名だたる海洋国が参戦するが、これまでにカップを手にしたのは、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランド、スイスの4カ国のみである。
 日本の初挑戦は1992年の第28大会。続く95年の第29回大会にも参戦したが、ヤマハはこの2回のレース艇「ニッポン」号の建造を担当している。社内にプロジェクトチームとしてアメリカズカップ室を設置し、2回のレースで5隻のレーシングヨットを建造した。CFD(Computational Fluid Dynamics)による流体解析、FEM(Finite Element Method)による構造解析およびVPP(速度予測プログラム)による性能分析をベースにした船型、キール、ラダーなど、細部に至るまで先進的な設計を取り入れ、さらにノーメックスハニカム芯材を使ったカーボン・プリプレグ艇の建造技術など、最先端技術を投入して、世界最高レベルのハイテクヨットの完成を目指した。開催地は2回ともアメリカのサンディエゴで、ニッポン号は経験豊かな強豪を相手に善戦。準決勝まで駒を進め、世界中のマリンスポーツファンの注目を集めた。
 アメリカズカップに対して、ホイットブレッド世界一周レース(現・ボルボオーシャンレース)は、フルクルーによるオフショアレースの最高峰である。世界最長、3万2000マイル(約6万キロ)を競うこのレースは、4年に1度の開催で、スタートからフィニッシュまで約9ヶ月間を要するという世界で最も過酷な海の戦いである。
 1993年-94年大会ではヤマハがメインスポンサーとなった「YAMAHA Round the World」号は、ニュージーランドのロス・フィールドを艇長として参戦。この大会には世界12カ国から15艇が参戦し、新企画のホイットブレット60クラスによる初のレースが行われた。1993年9月25日イギリスのサウサンプトンをスタート。大西洋を縦断後にはインド洋、ローリングフォーティーズを横断、再び大西洋を北上してアメリカに渡り、さらに大西洋を横断してサウサンプトンに戻るというもの。風もなく潮も流れない赤道無風帯や、常に強烈な熱帯低気圧が渦巻くサザンオーシャンなど、海の難所も多い。
 「YAMAHA Round the World」号は序盤から上位に付け、終盤で一気にトップを奪い94年6月3日にサウサンプトンにゴールし、初出場でW60クラス初代優勝の栄誉に輝いた。所要時間は当時の新記録、120日14時間55分だった。
 このレースではヤマハがレース艇の設計・建造に直接関わることはなかったが、小松一憲氏が乗艇しレース艇の情報・チャレンジに必要なノウハウを収集。そしてレースの経過はマスコミを通して広く紹介され、夢や感動、挑戦することの素晴らしさを日本のそして世界中のマリンファンと分かち合うことができた。
 こうした大型ヨットによるレース活動ばかりでなく、ヤマハでは国際470級による小型ヨットのレース活動にも取り組んできた。1970年代以降、多くの日本人セーラーが海外のレースで活躍する中、ヤマハにおいても静岡県の浜名湖を拠点に複数のチームが世界を目指していた。
 「Revs Your Heart」というブランドスローガンが社内外で浸透していく中で、再びセーリングの世界で夢を追い、多くの人々と感動を共有したいとの機運が高まり、2016年、470級のセーリングチーム「YAMAHA Sailing Team‘Revs’」が結成された。

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パンナムクリッパーカップでクラス優勝を果たした「スーパーウィッチ」

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それまでのヨット建造における技術の粋を集めて建造されたアメリカズカップ挑戦艇

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ホイットブレッド世界一周レースで初挑戦初優勝を飾ったヤマハ号。自然をレーシングフィールドとするオフショアレースの醍醐味を多くの人々に伝えた

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2016年のチーム結成以来、男子2ペア、女子1ペア,計6名のセーラーが在籍。国内はもちろん世界の主要レースを転戦し、世界の頂点を目指した

『マリン事業60周年史』〈1960-2020〉

ボート、ヨット、船外機、マリンジェット、そして舶用などのマリンプロダクツを60年の歩みと共にご紹介します。

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