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マリン事業の歩み 『船外機』- マリン製品

P-7の誕生から4ストロークモデルF350まで、ヤマハ船外機の歴史を紹介します。

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浜を席巻したヤマハの黄帽子

世界200ヵ国で愛用されるヤマハ船外機。その原点はセーリングクルーザーに取り付けられていた船外機の故障から始まった。

取り扱い説明書が唯一の開発資料

 1953年、ヤマハ発動機創業者、川上源一は社長就任後90日間の欧米視察の中で、水上レジャーが盛んに行われている光景を目の当たりにし、日本にもやがてこうしたレジャーが来ると確信。帰国後には水上レジャーの本質を知るために、自らセイリングクルーザーを所有して浜名湖でのセーリングを楽しんでいた。
 このクルーザーには当時メジャーブランドであったアメリカ製の船外機が搭載されていたが、故障が多く、載せ替えた国産品は故障こそ少ないものの、性能面ではアメリカ製に遠く及ばなかった。
 そこで川上社長は「無いものなら造ろう」と船外機の製造を決断する。しかしながら、当時の社会状況は高度経済成長の入り口。一般家庭は家電化が始まったばかりで、休日をボートで過ごすという発想すら持ち合わせていない。船外機の生産ができても販売に結びつかなければ、事業として成り立たないと判断した川上社長は、動力化の兆しが見えてきた漁船などの業務需要を当面の対象として、船外機の開発を指示した。
 1958年には、モーターサイクルYD-1のエンジンベースとした250ccの試作機を完成させたが、エンジンマウントの破損などトラブルが続き製品化を断念。しかし、平行して開発していたYA-1のエンジンをベースとする125ccタイプの試作機が完成。工場の防火水槽での昼夜連続の耐久テスト、狩野川での社員総出の航行テストを経て、1960年に月産200台を想定して「P-7」として発売し、ここにヤマハ船外機の歴史が始まる。
 ちなみにこの「P-7」の開発スタッフに資料として渡されたものは、その当時に海外で発売されていた船外機のカタログだけだったという逸話は、今でも船外機の開発スタッフに引きつがれていると言う。
 ヤマハ製の船外機が市場で受け入れられたのは、「P-7」を発売した翌年(1961年)11月に発売した、空冷63cc単気筒3馬力の「P-3」である。動力化が浸透し始めた業務市場では3馬力が最も多く使われており、そのニーズに合わせて開発し発売。当初は他社モデルが多かった漁村にも、次第に「P-3」が導入されると、その始動性、また操作の反応がスムーズなことからたちまち評判となり、千葉県外房のある漁村では、わずか1年でヤマハの船外機が港を埋め尽くしたと言われている。当時、漁師を始め船外機ユーザーからは、女性スタッフがデザインした黄色のカウリングを帽子に見立てて、「ヤマハの黄帽子」と呼ばれていた。

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発売当時P-7やPC-35は舶用エンジンとして発売されていたために、レジャー用としてPRされることは少なかった。写真は当時の最新モデルFISH-12とPC-35の組合せ(昭和40年)

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レジャー用としてホワイトカラーで統一された船外機。昭和42年には灯油切替式の6馬力モデルP125Aがラインナップ。燃料タンク別体モデルとして注目を集めた

技術躍進を実現した、大型化への取り組みと世界市場への進出

 「P-3」発売後、モデル数を増やして次々と市場導入を図ったが、すでに高馬力化が進んでいた海外との差は簡単には縮まらなかった。そうした中で、ヤマハ船外機の世界進出の足がかりとなったのが、海外メーカーからのオファーだった。当時、北米市場をマーケットに持つブランズウィック社からの打診を受けたヤマハは10年間という期限付きの業務提携を結ぶ。この提携によって1974年には共同開発モデルとして水冷2気筒760ccの「55A」を発売。この新機種には全滲炭焼入れの一体型クランク、2つ割りコンロッド(組み立て式コンロッド)、CDIイグニッションなど船外機を製造する三信工業独自の新技術を織り込み、その後の大型船外機の基礎となった。さらに一般地(発展途上国)の厳しい使用条件に適合するように改良を重ね、エンデューロE48シリーズの代表モデルとして発売された。この間、船外機の大型化が進み1982年には200馬力を超え200Aや220Aといった船外機をリリースする。そしてブランズウィック社との業務提携を解消後の1983年9月にシカゴで開催された世界最大規模のマリントレードショーで、「YAMAHA」ブランドとして船外機を出展。それは、今日北米でのマリンシーンを飾るヤマハ船外機がアメリカ本土で産声を上げた瞬間だった。
 以降、北米や欧州ではプレジャーモデルが、中南米やアジア、アフリカなどでは業務用のエンデューロモデルが人気を集めた。それは単純な船外機の性能だけではなく、メンテナンス性の良さやアフターパーツのデリバリースピードといった、ヤマハならではのサービスやサポート体制が、世界の水辺にYAMAHAというブランドを構築してきたといっても過言ではない。

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マリンレジャーの人気の高まりと共にボート・船外機への注目が集まりはじめ、オイルショック以降、好景気と共に船外機も大型化、拡大路線を歩む。

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2ストロークモデルとして高い環境性能を誇るH.P.D.Iモデル。Z200Nは米国・マリントレードショー・IMTECで技術革新賞を受賞するなど、高性能と環境性能を両立した船外機として、未だに根強い人気を誇る

世界のトップブランドへ

 2ストローク船外機で高い評価を得たヤマハ船外機が、世界のトップブランドとして認知されるようになったのが、環境対応エンジンにおける技術力の高さである。アメリカでの排ガス規制に代表されるように、1990年代には先進国を中心に環境負荷を低減する規制が次々と導入され、船外機メーカーは環境対応エンジンの開発に注力することになる。そのような状況の中でヤマハは4ストローク船外機F9.9で、1992年に最も厳しい環境規制といわれたボーデン湖(ドイツ、オーストリア、スイスなどの国境に接する湖)規制を世界で初めてクリア。1998年に発売したF100AはDOHC・16バルブ・直列4気筒エンジンを採用しクラス最高の出力と環境性能を備え、トランサムやプロペラなどを多種揃えて展開し、世界中のさまざまなボートに対応可能とした。このF100Aの開発によって、現在のフラグシップモデルであるF350へと続く4ストローク船外機の大型化の可能性が見いだされたのだった。

 ひとつの漁村をわずか1年で席巻したヤマハの船外機は、50年に及ぶ歴史の中で舞台を世界へと移し進化を遂げきた。しかしひとつひとつの製品に注ぐ思いは今も昔も変わらずに生きている。それは船外機が人々に潤いと安らぎのある豊かな生活を提供する製品であること。これがいつの時代もヤマハが目指す最高の船外機である。

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「P-7」の生産開始以来、ヤマハ船外機の累計生産台数は2013年4月現在1000万台を超え、180以上の国と地域に向けて船外機を提供してきた。2ストロークは2馬力から250馬力、4ストロークは2馬力から350馬力までをラインナップしている。写真はV8モデルのF300A

1960 P-7
ヤマハ初の船外機P-7は、2ストローク、空冷・単気筒、123ccで7馬力の出力を誇り、沿岸漁業用の木造和船を主な対象として販売された
1974 55A
大型化の基礎モデルになった55A。水冷2気筒760ccのエンジンには全滲炭焼入れの一体型クランク、2つ割コンロッドなど独自技術を投入して製品化した
1982 E40G
世界各地の過酷な条件で使用されることを想定して開発されるエンデューロモデル。性能はもとより、耐久性、信頼性、そしてメンテナンス性といったトータルバランスを追求している
1999 F100A
世界で初めて船外機でDOHC・16バルブ直列4気筒エンジンを採用したF1OOAは、クラス最高の出力、クリーン排気、そして低燃費を実現した
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